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第二話 再会、回りだした歯車

last update Last Updated: 2025-05-17 21:17:20

【二〇二五年 杏】

 二十六歳になった私は、大手企業に勤めるごく普通のOLとして忙しい毎日を送っていた。

 その日も朝から会社は慌ただしく――

「はい、こちら佐原です。……はい、確認して折り返します!」

 次々にかかってくる発注の電話に追われ、私は慌ただしくメモを取る。

 フロア中に電話の音や話し声が響き渡り、あちこちで人が忙しなく動き回っていた。

 その間を、私は書類の山を抱え、小走りに駆け抜けていく。

 積み上げた書類がずり落ちそうになり、慌てて持ち直そうとしたその時だった。

「きゃーっ!」

 甲高い女性の悲鳴が突然響いた。

 思わず足を止めた私は、声のした方向へ視線を向ける。

 何が起きたのだろう。

 好奇心と不安が入り混じる。

 気づけば、私の足は、吸い寄せられるようにそちらへと踏み出していた。

 私の部署からほど近い、廊下の一角。

 そこに人だかりが出来ていた。

 私はゆっくりと近づいていく。

 すると、その人だかりの中心から怒声が飛んだ。

「てめえら、何見てやがる!」

「きゃっ!」

「押さえろ!」

 人並が動き、少しの隙間ができた。

 私は静かに近づいてそっと覗き込む。

 そこには、信じられない光景が広がっていた。

 数人の男性社員が、暴れる男を取り押さえようとしている。

 まるで映画のワンシーンのようだ。

「何が起きてるの……?」

 呆然としていると、どよめきが起こった。

 人だかりが突然乱れ、中にいた人たちが床に倒れ込んだ。

 人々がそれぞれ逃げ惑う中、三人の男性たちが一人の男を押さえ込んだ。

「うぅっ……くそっ!」

 男の手からナイフが床に落ち、乾いた音が響く。

 私は息を呑んだ。

 刃物……!?

「おい、警察はまだか!?」

「さっき呼んだから、もうすぐ着くはずだ!」

 周囲がざわめき、騒ぎを聞きつけた社員がさらに集まってきた。

 男は既に取り押さえられ、観念したように力なく地面に伏していた。

 私はほっと胸を撫で下ろした。

 すると、ふと手元の書類のことを思い出す。

 ここにいても、私に何ができるわけでもないし……。

 そう思った私は、そそくさと仕事へと戻ることにした。

 しかし、仕事をしている私の頭の中は、先程の事件のことでいっぱいだった。

 集中できない。

 いったい、どうなったんだろう。

 私の意識と視線は、廊下のほうへ向けられていた。

 しばらくすると、サイレンの音が聞こえてきた。

 どうやら、警察が到着したらしい。

 廊下はますます騒々しくなっていく。

 いや、私には関係ない……と思うものの、会社で起こったことだしなあ。

 やっぱり、気になる。

 というより、先ほどから妙な胸騒ぎが私の心の中に渦巻いていた。

 これは、いったい……。

 不思議に思いつつ、私はまた仕事に集中した。

「佐原さん、ちょっといいかな」

 突然肩を叩かれ、振り返る。

 すると、部長が深刻な表情で私を見下ろしていた。

 この胸騒ぎはいったい何なんだろう。

 また、私の中に奇妙な不安がよぎる。

 私はそのまま事件の現場へと連れて行かれる。

 そこには警察の人たちがいて、すでに何人かの社員が事情聴取を受けていた。

 私も目撃者として呼ばれたらしい。

「こちらの刑事さんに協力して」

 部長がそう言い残し去っていくと、一人のスーツ姿の男性がこちらに近づいてきた。

「お名前を教えていただけますか?」

 書類に視線を落としていたその刑事が顔を上げた瞬間、私の心臓が激しく脈打つ。

 まさか……そんなはずない。

 目が合った刑事も、私を見て驚愕の表情を浮かべる。

「……もしかして、杏……なのか?」

「しゅう、じ……なの?」

 胸の奥底で何かが疼いた。

 それはずっと前に消し去ったはずの淡い感情。

 初恋。

 初めて愛しいと思った人。

 そして、決して愛してはいけない人だった。

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Comments (1)
goodnovel comment avatar
憮然野郎
シュウジとやっと再会できたのに、愛してはいけないなんて…どういうことなのでしょうか? その理由が気になって仕方ないです…!(゚д゚*)
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